競技、というくらいだから「競うもの」のはずだけど、スポーツはそのやりがいとか楽しさとか、順位や数字を「競うもの」以外にこそ価値がある、と思わされてる気がする。

況(いわん)や「参加することに意義がある」をや。

「がんばれば必ず報われる」という押し付けがましくも美しきメッセージが、苦労して、努力して、怪我や病気に泣きつつも難事を乗り越えてきた選手たちから強力かつ鮮烈に発せられ、ごくナチュラルに「負けて諦めた人たち」を無視しつつ、「スポーツをやることこそ素晴らしいこと」という常識めいた根性論として、形作られている。

苦労を乗り越えて栄誉をつかんだ選手たちの努力は素晴らしい。
しかし彼らには「努力する才能」「努力できる環境」「努力できる運」があったからこそ「努力」に取り組めたのであって、取り組めたからこそ乗り越えられたのであって、乗り越えられなかった人らは「敗者」「落伍者」として、「食べられないので皮は捨てます」というのと同じように、自動的に無視する決まりにでもなっているかのようだ。


実際は、プロスポーツと言われるものは全て企業の協賛や出資者の後援がないと成り立たず、宣伝と広告に最大限活用されてスポンサーの利益誘導に従っているので、金儲けの手段としてしか成立し得ない。

金儲けが悪いのではない。
金が儲かるという理由ではなく「流す汗こそ素晴らしい」からやってるのだ、としか発せられないメッセージの息苦しさが、もどかしいのだ。

それはそういうもんなんだからしょうがないよ…と言われればそれまでだが、神聖で純粋で、健全で健康的な、「やらざるものはすべてその逆」だと言わんばかりの風潮は、すさまじく居心地が悪い。


スポーツなんか全て無くなったとしてもなんとも思わない


なんて言おうものなら邪悪・不純・不健全・不健康、輪を乱し犯罪にすら傾きかねない思考を持った者、の烙印を押されかねない。

ましてや、ただスポーツを真似ているだけの「学校のマラソン大会」に不服など示そうものなら「社会悪の萌芽を宿せし者」というレッテルさえ、貼られかねない。

世界的なスポーツ大会が行われることになって、勝った人たち(出場してるということはすでにかなり勝ってきたということだ)の栄誉を称えることに異論はまったくないけれど、常に、どんな記録が出ようが「それが何?だからなんなんだよ!?」という冷静さを、忘れないようにしたいと思っている。




眼前の現象に惑わされがちな日々の中で
「なぜこんなことに」の解は、
検索すれば見つかる時代。

とは言え
「どれを選ぶのが最短で最良なのか」をこそ、
悩む時代。

日夜、
不思議に思うならご質問ください。

しんどい思いがあるのなら、
ご相談ください。


遅効性を備えたみちしるべを灯す、
ここはひんやりとした、
精神と哀しみの塔。

「継続サポーター」にしか触れられない動画や音声には、
なんらかの直接役立つ情報が紛れ込むこともあるでしょう。

簡単・問題・解決箱。
お互いに、ほんのわずかのメリットが、
じんわり芽生えはじめること、うけあいです。